宇宙開発競争
初めての有人宇宙飛行は、アメリカとソビエト連邦という2つの超大国が互いに対抗しあった「宇宙開発競争」の一環として行われた。
Photograph courtesy NASA
NASAの最初の有人宇宙飛行計画はマーキュリー計画だった。この野心的な事業は1958年に開始された。それは、ソビエトが人類初の人工衛星スプートニク1号の打ち上げを成功させて宇宙時代の幕開けを宣言したおよそ1年後のことである。
冷戦下の宇宙開発競争はマーキュリーのミッションで本格的な幕が開き、アメリカ政府と民間セクターから膨大な資源が動員された。推定では、200万人のアメリカ人が貢献したとされている。
宇宙空間で人体の限界をテストすることは、双方の宇宙計画にとって重要な目的だった。その目的のため、まずロボットと動物が宇宙へ打ち上げられている。最も有名なのはマーキュリーの“ハム”(チンパンジー)とソ連の“ライカ”(犬)である。“ハム”は弾道飛行の後に無事に帰還し、ワシントンD.C.の国立動物園で快適な余生を送ったが、1957年にスプートニク2号に乗せられた“ライカ”には帰還するチャンスが最初から用意されていなかった。
宇宙に到達した最初の人間
ソ連の宇宙飛行士ユーリイ・ガガーリンは1961年4月12日、有人宇宙船ボストーク1号で地球の周回軌道に乗り、宇宙空間に到達した最初の人間になった。
そのおよそ1カ月後の1961年5月5日に、今度はマーキュリー・レッドストーン3号が打ち上げられ、アラン・シェパードが宇宙空間に到達した最初のアメリカ人になっている。フリーダムセブンと名付けられた宇宙船は15分間の弾道飛行を行い、その様子はテレビで中継され、およそ4500万人が釘付けになった。
1961年から1963年の間に、6機の有人宇宙船がマーキュリー計画の一環として宇宙飛行を行っている。マーキュリーの宇宙飛行士が乗り込んだのは、打ち上げロケットから切り離されて、最後は地球に降下してくる翼のないカプセルだ。その小さな宇宙船は、帰還時に地球の大気に再突入するときの高温に耐え、同時に海への着水に対応できるように設計されていた。
シェパードの弾道飛行の数週間後、ジョン・F・ケネディ大統領は60年代末までに人類を月へ送り込むという野心的な計画を発表した。この挑戦は、ジェミニおよびアポロというNASAのミッションが立ち上がる合図となる。
それでもまだマーキュリー計画には成すべきことがほかにもあった。1962年2月、ジョン・グレンはフレンドシップセブンのミッションで地球の周回軌道に乗った最初のアメリカ人になっている。
NASAのジェミニ計画では、ランデブーやドッキングなど、宇宙飛行士が月に下り立って地球に戻ってくるための高度な作戦行動を無事に遂行できるよう有人宇宙船を改良することが構想されていた。
この時期のミッションが長期化するにつれて、宇宙飛行士たちは船内での生活や船外での活動に熟練するようになっていった。ソ連の宇宙飛行士アレクセイ・レオーノフは、1965年3月に軌道を回る宇宙船の外へ出て人類最初の宇宙遊泳を行った。
月面着陸
アポロのミッション開始は宇宙開発競争でのアメリカの優位性を固め、宇宙探査の大きな一歩となった。
1969年7月20日、ニール・アームストロングとエドウィン・“バズ”・オルドリンは、月に到達した最初の人間になった。二人の乗った月着陸船が月面の「静かの海」に着陸したのだ。アポロ計画が1972年に終了するまでに、ほかにも5つのミッションで月面着陸が行われている。
有人宇宙船アポロは、司令・機械船と月着陸船という2つのモジュールで構成されている。司令・機械船が月軌道の周回を続ける間に、月着陸船は司令船から分離し2名の飛行士を月面に降下させる。その後、地球への帰還のために司令船に戻って再結合することができる。
後期のミッションでは、月面車で移動したり、宇宙飛行士が月面で3日間過ごすなどの活動も行われた。
アポロのミッションでは華々しい成果が得られたが、そのためには莫大な費用がかかっている。更に、宇宙飛行士のバージル・“ガス”・グリソム、エドワード・ホワイト、そしてロジャー・チャフィーが、最初の宇宙飛行が行われる前の訓練中に発射台の火事で亡くなるという犠牲も払っている。
アポロのミッションが1972年に終了したときに、有人宇宙探査の最初の時代は終わりを告げた。
冷戦下の宇宙開発競争はマーキュリーのミッションで本格的な幕が開き、アメリカ政府と民間セクターから膨大な資源が動員された。推定では、200万人のアメリカ人が貢献したとされている。
宇宙空間で人体の限界をテストすることは、双方の宇宙計画にとって重要な目的だった。その目的のため、まずロボットと動物が宇宙へ打ち上げられている。最も有名なのはマーキュリーの“ハム”(チンパンジー)とソ連の“ライカ”(犬)である。“ハム”は弾道飛行の後に無事に帰還し、ワシントンD.C.の国立動物園で快適な余生を送ったが、1957年にスプートニク2号に乗せられた“ライカ”には帰還するチャンスが最初から用意されていなかった。
宇宙に到達した最初の人間
ソ連の宇宙飛行士ユーリイ・ガガーリンは1961年4月12日、有人宇宙船ボストーク1号で地球の周回軌道に乗り、宇宙空間に到達した最初の人間になった。
そのおよそ1カ月後の1961年5月5日に、今度はマーキュリー・レッドストーン3号が打ち上げられ、アラン・シェパードが宇宙空間に到達した最初のアメリカ人になっている。フリーダムセブンと名付けられた宇宙船は15分間の弾道飛行を行い、その様子はテレビで中継され、およそ4500万人が釘付けになった。
1961年から1963年の間に、6機の有人宇宙船がマーキュリー計画の一環として宇宙飛行を行っている。マーキュリーの宇宙飛行士が乗り込んだのは、打ち上げロケットから切り離されて、最後は地球に降下してくる翼のないカプセルだ。その小さな宇宙船は、帰還時に地球の大気に再突入するときの高温に耐え、同時に海への着水に対応できるように設計されていた。
シェパードの弾道飛行の数週間後、ジョン・F・ケネディ大統領は60年代末までに人類を月へ送り込むという野心的な計画を発表した。この挑戦は、ジェミニおよびアポロというNASAのミッションが立ち上がる合図となる。
それでもまだマーキュリー計画には成すべきことがほかにもあった。1962年2月、ジョン・グレンはフレンドシップセブンのミッションで地球の周回軌道に乗った最初のアメリカ人になっている。
NASAのジェミニ計画では、ランデブーやドッキングなど、宇宙飛行士が月に下り立って地球に戻ってくるための高度な作戦行動を無事に遂行できるよう有人宇宙船を改良することが構想されていた。
この時期のミッションが長期化するにつれて、宇宙飛行士たちは船内での生活や船外での活動に熟練するようになっていった。ソ連の宇宙飛行士アレクセイ・レオーノフは、1965年3月に軌道を回る宇宙船の外へ出て人類最初の宇宙遊泳を行った。
月面着陸
アポロのミッション開始は宇宙開発競争でのアメリカの優位性を固め、宇宙探査の大きな一歩となった。
1969年7月20日、ニール・アームストロングとエドウィン・“バズ”・オルドリンは、月に到達した最初の人間になった。二人の乗った月着陸船が月面の「静かの海」に着陸したのだ。アポロ計画が1972年に終了するまでに、ほかにも5つのミッションで月面着陸が行われている。
有人宇宙船アポロは、司令・機械船と月着陸船という2つのモジュールで構成されている。司令・機械船が月軌道の周回を続ける間に、月着陸船は司令船から分離し2名の飛行士を月面に降下させる。その後、地球への帰還のために司令船に戻って再結合することができる。
後期のミッションでは、月面車で移動したり、宇宙飛行士が月面で3日間過ごすなどの活動も行われた。
アポロのミッションでは華々しい成果が得られたが、そのためには莫大な費用がかかっている。更に、宇宙飛行士のバージル・“ガス”・グリソム、エドワード・ホワイト、そしてロジャー・チャフィーが、最初の宇宙飛行が行われる前の訓練中に発射台の火事で亡くなるという犠牲も払っている。
アポロのミッションが1972年に終了したときに、有人宇宙探査の最初の時代は終わりを告げた。























